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白 ーまなこの裏の色ー 
White "MANAKO NO URA NO IRO"

2003年10月20日(月)〜25日(土)
巷房
及び Space Kobo & Tomo

〒104−0061東京都中央区銀座1−9−8
奥野ビル3F+ B1F(Space Kobo&Tomo)

Tel/Fax 03-3567-8727

巷房ホームページ  http://www.spinn-aker.co.jp/kobo.htm





天井から吊られた真綿(絹)とライトによるインスタレーション

玉繭から拡げた真綿を手引きの生糸で縫い合わせ、何重にも天井から吊るしました。

窓からの光と框(かまち)に置いたライトの間接光で部屋全体に柔らかい光が行き亘り、半透明の「空気」に包まれます。

場所によっては真綿の膜の間にも入れますので、この光景は繭の内側からの光景にも似ているのかもしれません。

窓を開けると部屋全体が呼吸を始めます。

色々な方が訪れてくれましたが、部屋にずっといると、来る人によって「あれっ」と驚くくらいに空間が変質するのを感じました。

意識せずとも、人は空間の一部であり、空間を作っているのです。

3F会場 巷房 【詳細写真のページへ】
真綿(絹) 蛍光灯 ほか H.200 cm




天井から吊られたステンレス線とライトによるインスタレーション

前年にさいたま市の「楽風」で行った「御柱」の二回目の展示です。

前回とは吊るし方も照明も全く変え、昔は共同浴場だったというこちらの地下展示室に光の柱を「たて」ました。

照明はこの写真では奥の上に白色灯が点いていますが、実際には床に置いた蛍光灯の間接光のみで照らしてます。

3階の真綿の部屋とは異なり、冷たいくらいにシャープで硬質な空間が生まれました。

B1F会場 Space Kobo & Tomo 【詳細写真のページへ】
ステンレス アクリル アラミド繊維 蛍光灯 ほか H.250 cm



― 巷房
(こうぼう)におけるインスタレーション・展示趣旨 ―

《 ホワイトバランス・からだの内側の中性化 》

白いものが白く見えるということは当然のようでいて、かなり複雑精妙なからだのメカニズムが働いて初めて見えてくる感覚です。

朝夕の薄暗がりや黄色っぽい電球、少し緑色っぽい蛍光灯の下でも白いものを白色と感じ、色の違いを認識出来るのは、その場全体の光の量や偏りに対して、からだが中性的(ニュートラル)な状態に補正してバランスをとる事が出来るからで、その場の光によって見えてくる色を、昼間の太陽光で見える色のバランスに変換して感じ取っています。

目の網膜には、性質の異なる杆体(かんたい)と錐体(すいたい)と呼ばれる光を感じ取る神経細胞があり、暗いところではたらく杆体(かんたい)と、明るいところではたらく錐体(すいたい)が補完しながら外部の情報を受け取っています。
その数の割合は約1億2千万:700万と言われ、17:1か
ら18:1くらいです。


杆体(かんたい)が多いのは私たちの祖先が夜行生物としての時代が長かったからだと考えられています。

人の場合ほぼ3種類の錐体(すいたい)(赤錐体・緑錐体・青錐体)を持っていますが、2種類だけの生き物や逆に4種類の錐体(すいたい)を持つ生き物もあり、見えている色や見え方が違ってくるのは既知の通りです。当然可視光域も違ってきます。

言い換えれば、からだの中に太陽光が陰画のように刻み込まれ、億単位の生命誌が刻み込まれているということです。

ご存知のように写真やビデオで撮った映像の色は肉眼で見たものとは違っています。ビデオなどで「ホワイトバランス」をとり、色の偏りと明るさを補正するのはその違いを出来る限り近づけようとするためです。

本来なら生きることに密着した、
からだの内側の中性化(ホワイトバランス)を、外部から与えてやらないと非常に見にくい映像となってしまうわけです。

聴覚に関して言うなら、耳近くの血管の血流音が聞こえないように調整されているし、臭覚も鼻の中の匂いが常にしないように調整されています。様々な雑音の中から、聞きたい音を選択して聞けることも、精妙な調整があればこそ、と言えるでしょう。
これらの固定化されない、その場・その時の流動的な中性化(ホワイトバランス)によって、必要な情報を受け取り、支障なく行動することが出
来ます。

しかし、このことは逆の側面も持ち、本来見えているもの、聞こえているものが失われてしまうことにもなっています。それも、全く無自覚なままで…。


《 ホワイトアウト・からだの外側の中性化 》


登山をしていると、濃い霧に捲かれてほとんど先が見えなくなることがあります。高校時代に八甲田山の山頂であっという間に霧に包まれ、1・2メートルほどの視野の中で友人と右往左往した時の心細さと、道が見つかった時の感激は忘れられません。自然の怖さは何も天災の時ばかりでなく、実は無知やちょっとした心の傲慢さからも充分に引き出されるのだということを教わりました。

吹雪や霧に包まれ視野が利かなくなること、またそれによって方向感覚が分からなくなることを「ホワイトアウト」と言います。
今まで当然としてあった基盤が一気になくなり、「白」の中に投げ出され、感覚がパニックを起こしてしまう。

これは見方を変えると、自分の外側の中性(ニュートラル)化とも言えるでしょう。空と地面の違い、岩と木の境目が消失して感覚的に宙ぶらりんにされてしまう。違いを探そうとする感覚は鋭敏になるのだがそれが全て「白」の中に呑み込まれてしまいます。


北海道の野付(のつけ)湾という内海に行った時のこと、波のほとんどない遠浅の静かな海が広がり、雲が海すれすれまで降りてきて空と海とが見分けられなくなりました。
海に入って少し沖まで歩くともうそこは「白」(ホワイトアウト)の世界。視界に何も境目のない乳白色
が広がるばかり。
穏やかな乳白色に包まれていると感覚が麻痺して溶けだし、自分が立っていることさえ分からなくなってきます。ふっと倒れそうになるのだが自分の中も外も溶けてなくなる感じがあまりにも心地良く、しばらく海に佇んでいました。


《 まなこの裏の色 》


西表(いりおもて)島の鹿川(かのかわ)湾では断食中、毎晩、虫や鳥や蛙の鳴き声に苦しんだことがあります。

断食により鋭敏になる感覚のため、拍
子木に似た「カーン、カーン」という鳴き声が胃を直撃し、その苦しさで眠れません。
ふと辺りを見回すと、それまでの雨がやみ、月が出ているのか草や木々が光っています。屋根だけの寝床から起きだしてアダンのトンネルを抜け浜辺に出た時、月の光に息を呑みました。

天空に煌々と照る月、目の前の海には反射した月光がキラキラと広がり、棘だらけのアダンもパパイヤも草々も砂粒の一つ一つにまで慈雨のように月光が降りそそぎ、全てが完全な世界に見えます。
自分も砂粒も波も葉っぱも闇も光も、
存在価値の軽重が何もない。自分も含めて、一つの完全(パーフェクト)な光景がそこにありました。

からだの痛みは消えてゆき、喩えようもない至福感と、「この風景を見たら人も社会も変わるのだが…」という気持ちが生ま
れてきました。

白い月光によって全てのものが一つになっていた。その光景を一言で表現するなら、自然の中で経験した「愛」です。

西表島で見た月の白光は、その後の私の表現の原点となりました。どうにかしてこれを表現したいと常々考えています。

明るい日の光のもと、まなこを閉じて太陽に顔を向けてみる。赤と黄色のまだらの熱の塊がまぶたの裏側に浮かび上がって徐々に白っぽくなります。しばらくして目を開けると、世界は真っ青に感じられるでしょう。
日光と青空は補色で、両者が揃うと白になります。からだの中に、日光と青空との混合光が「白」(ニュートラル)として刻み込まれていて、常に「白」を保とうとします。


「白」は、自分では見ることが出来ない、まなこの裏(うちがわ)に刻まれたバランス基準。

「白」は、人が人に進化してゆく間に、からだに刻み込まれてきた、自然の中で生き続けるための生命の基準。



酸素を作る植物の葉緑素(クロロフィル)。この葉緑素のマグネシウムを鉄に置き換えると赤血球のヘモグロビンとなることが知られています。ヘモグロビンは体内の酸素の運び屋としてはたらきます。
クロロフィルの緑とヘモグロビンの赤は補色に近い。これはとても不思議な符合です。

植物が先行した生命進化も、植物と動物が補い合うのが今の世界。両者が揃わなければどちらも滅びるか、あるいはもう一
方をどうにかして生み出すのではないでしょうか。
もしかすると生命のみならず、宇宙全体が多彩な彩りを持ちながら「白」を保とうとしているのかも知れません。

自然の中で生きてきた私たち人間が、自分たちで作り上げた環境の中でバランスを失ってしまっています。

普段の生活に慣れきった感覚を一度ホワイトアウトさせてホワイトバランスをとる。そのことが常に必要なのではないでしょうか。


感覚のリセットが出来る白い空間を、天の虫・お蚕さんから頂いた美しい白い絹によって表現したい、と考えています。


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