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No.01  2005.06.20

作られる「事実」と変わらぬ「真実」
旧石器捏造事件から「9.11」へ



私には、何かものを書くにあたってまず脳裏に浮かぶことがある。

もう事件があったことさえ忘れられかけ始めている、あの70万年前にまで及ぶ「旧石器捏造事件」である。

日本の教科書を変え、世界の考古学者から注目を集めていた数十万年にも遡る日本の旧石器遺跡のそのほとんどが、何年にも亘る捏造によって作られていた。

2000年11月その事実が発覚し、公表された時の私の衝撃は非常に大きかった。

「何を土台にして考え、書くのか」という問題を改めて突きつけられ、正直になろうとすればするほど「お手上げ」になってしまったのだ。

「何を当たり前のことを大袈裟な…」と思う向きもいるに違いない。

この事件が、私にとって重大な意味を持つ理由を少し遠回りだが述べ、このエッセイの始まりとしたい。

私の父方の祖父は仕事上の人間関係が嫌になり、群馬の小学校の校長を定年より少し早めに辞め、その後は公職として教育委員会の考古・発掘関係に携わった。

群馬の考古学といえば、日本の考古学の発展にとって非常に大きな位置を占めている旧石器時代の「岩宿遺跡」の発見がある。

周知の通り「岩宿遺跡」の発見以降、旧石器時代(先土器時代)の学術的調査がきちんと行われるようになり。旧石器時代など日本に無いと考えられていた日本人の起源が、それまで考えられていた時期より大きく遡ることが証明されていった。

祖父の家は赤城山の麓にあり、私が子供の頃にはまだ養蚕のための桑畑がそこかしこにあって、主に榛名山から飛んできた白っぽい軽石等に混じって、茶色の小さな土器が案外普通に見られたものだった。

祖父はさすがに時期が違い、岩宿遺跡には関わっていないが、縄文・弥生以降の様々な遺跡や文化財に関わったようで、地元・赤城村の歴史資料館の設置に尽力した。

出来たばかりの資料館に連れて行かれ、よくぞここまでバラバラになった、と思えるような破片が見事に接ぎ合わされて、大きな壺のようなものになっているのを不思議な想いで見た。

祖父の家の床の間やガラス戸の中にも、やはり接いだ土器が小さな座布団の上に飾られていて、年に数回訪れると、仏壇に手を合わせ、土器や化石を見、そしてなぜか小さな木魚を見ると「来た」という感じがしたものだった。

実際に手にする土器や石器や貝の化石の少しカビたような匂いは、私の胸の奥に染み付いて今でも何かの出番を待っている気配がある。

もの作りが好きというのが高じて美術の世界に入ったのだが、その原点として、これらの数千年前からの人の手になる土器や石器、あるいは祖父と共に道端の道祖神や塔婆などに触れたことが、自覚している以上に大きいようだ。

もしかすると、後に嫌というほど考えた「自己表現」という近・現代芸術の問題に対する違和感は、この辺りから発しているのかも知れない。

常に「そんな『自己』なるものを表現して何になるんだ。そもそもその『自己』とは何ぞや?」という疑問が胸の奥から出てくる。安易には「自己表現」という言葉が使えない。

この問題はさておき、道端の道祖神や五輪の塔、庚申塚や古い地蔵等への親密な感情と想像力は、時間を超えた「普遍的」な物事や生き方への興味へと繋がっていった。

2歳から住んでいる埼玉も、少し山間に行けば古くからの文化財や遺跡も多く、地質的に見ても古生代の地層が出ていたりと「人間」以前まで遡れる要素が沢山ある地域だ。

秩父は好きで随分歩いた。四国には八十八ヶ所札所めぐりがあるが、秩父には三十四ヶ所札所めぐりがあり、全部歩くと100キロ程度で四国の霊場めぐりの十分の一位だろう。

飛び飛びには行ったことのある所を、ある時、三十四札所全部を野宿しながら歩いてみた。

たった100キロでも歩かずにタクシーやバスや車で廻る人のほうが多い。

正直なところ歩かなければ分からないことが多いようで、秩父という地域が、点から線、そして面となり、空や地面の下までも含めたところで少しずつ理解されていった。

そして、歩いて札所めぐりをした古の人々の、貧しさや悲しみや悦びも、少しづつ、あるときは劇的に理解していったように思う。


「旅」という言葉の響きとイメージが好きだ。「旅行」となるとリッチで安心だがよそよそしい。

旅人は少し貧しい位のほうが、心豊かで得るものが大きいように思うのだが、…貧乏人の言訳だろうか…。

話が逸れてしまった。


霊場の一つに、松風山・音楽寺と呼ばれる札所が小鹿野(おがの)という地域にある。

札所で言えば二十三番だ。

秩父市街地の西に南北に伸びる高台がありその東面に音楽寺があり、その周辺は小鹿坂(おがさか)と呼ばれている。現在、高台一体は「ミューズパーク」という大きな公園になっている。

そして公園にするために造成中に「それ」は見つかった。

「それ」とは例の旧石器である。

新聞で知り、居ても立ってもおれず行ってみた。

丁度全ての調査と公開が終わり、大きな箕で土を埋め戻している最中だった。

ブルーシートで覆われた現場こそ入れなかったが、発見時の写真を見ながら簡単に責任者の方から話を伺うことが出来た。

最初の一個目の石器が見つかった時の興奮が伝わってきた

「まさに発見されるのを待っていたかのごとく(運命的に)見つけた」そんな言葉が、今では全く違う響きを持つのが切ない。

私はといえば、やはり興奮して、50万年前、当時荒川の河原近くだったその周辺を原人の気配を感じるかのように歩いてみた。

その後2000年2月、再び少し離れたところで石器群が見つかり、これは公開の現場説明会に行って、

発掘の状況を何百人もの訪問者と一緒にこの目で見ることが出来た。

その時感じたのは「原人は何て知性的なのだろう」ということ。

石の配置に知性と美を感じたのだ。

そして非常に遠い地域から来たと言われる石に、原人達の意志や行動力をみた。

夢のように、そこいらの林を闊歩した原人の息吹に触れた。

しかし、それは全て夢と思い込みだった。

石器は、東北地方の発掘品を50万年前の地層に埋めたものに過ぎなかった。


一般に「人は嘘をつくがモノは嘘をつかない」というが、モノに嘘を言わせていたのがこの事件。

何せ「第一人者」、「ゴッドハンド」の持ち主だから…。

捏造された「小鹿坂遺跡」について、あるいは原人の遺跡に関連したことを書いていた私は、困惑し、それ以降文が書けなくなった。

読む人がたとえ少なくても「原人どもが夢のあと」を書いて、結果として嘘を喧伝していたのは確かだ。

事実を知りたいがために何回も秩父にまで出向いて、この目で見たつもりになっていても所詮「真実」には迫れない。

正直、強く感じるのは、責任感より更に「真実」への遠さ。

考え、想像し、喜んで踊っていても、結局、基の「事実」が間違っていたり創られていたら単なる「アホ」ではないか。

現実にそれこそ無数とも言えるような情報の果たしてどこまでが本当かどうか、それを確かめることさえ出来ない状況に生きているのが私たちである。

それは今に始まったことではない。そういった状況の中でどの時代の人も生きてきたのだろう。

少なくとも、ここ数千年は「(多分)本当だよ」、と頭に(多分)をつけて…。

「歴史」は常にその時々の権力者によって作り変えられてきたし、それは今も現在進行形で行われている。

だからこそ、それに対する「歴史観」、いわゆる「読み方」が必要になってくるのだが、隠された「真実」の破片がそれによって見えるかもしれないし、単なる「アホ」でしかないのかも知れないし…。

どちらかといえば「アホ」を自覚して生きる方が、より「真実」に近づけそうだ。

そして、2001年9月11日、ふと点けた夜の10時のテレビ。私たちの目に飛び込んできたのは煙を出して燃えるビル、そこへ突っ込むもう一機のジェット機。

何が起こったのか?

そう、何が起こったのか?

くどいようだが、何が起こったのか答えられるだろうか?

誰の計画で、何故これほどの人が殺され、その後、アフガン・イラクで更に殺戮が行われたのか。


アメリカ政府の発表する「事実」は様々なところから漏れ出てくる「事実らしき」情報と矛盾することばかりだ。

私は、今現在は、アメリカの発表は到底信じられない。大きな部分で嘘をついていると考えている。

嘘を本当らしく見せるには細部に本物を使うこと。これはセオリー。

いずれにしろ「真実」はいくら時が経とうが必ず伏流水のごとくに湧き出てくるものだと思う。

ただ、「その世界での第一人者」が、「ゴッドハンド」でモノに嘘を言わせ、当人も百回でも千回でもその嘘を繰り返したならば、その嘘は立派な「事実」になってしまう。

そして、現実には、作られた「事実」が「本物」の皮を被って大手を振ってまかり通り、その「事実」を前提に新たな現実が進む。

「天国」も「地獄」も、人間によって発見されたのではなく、発明されたのではないか?

私たちは、そういった現実の中で、今日も、文字通り粉々に「粉砕」されている人間がいることを忘れてはいけないと思う。

日々触れる情報ばかりが、そういった不純なものではないところがこの問題を難しくする。

実はもう生まれた時から「不純な情報」が既に私たち一人一人に染み込んでいて、ごく普通の、無意識の行動や判断に影響を与えているから厄介だ。

でっち上げの「事実」が既に自分自身の一部となっていて、自分という「人間」を狂わせている。

こちらは、心の中から人を傷つけ、蝕んでゆく。

これらの非常に厄介な問題に対しての解決方法はあるのだろうか?

実のところ説明不可能なのだが、私には一つの断固として譲れない考えがある。

それは「からだは分かっている」という感じだ。

「頭は分かったつもりでいつでも自分を裏切り、『からだ』はそんなこととは関係なく常に『分かって』いる」

私が23歳の2月、このことを自覚するようなことが起こった。

私にとっては大事件で一大転機となった。

「からだは分かっている」

このことが、全ての人に当てはまるのかどうかはまだ分からない。

そうであれば良いとは思っているのだが…。


ここに、秩父札所の最後の寺、水潜寺の御詠歌を記しておきたい。

『 よろづよ(万世)の ねがい(願)をここに 納めおく 苔の下より 出ずる水かな 』

作られる「事実」と変わらぬ「真実」  −終−


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