みもろ メインページへ みもろとは? 混合物・混在 基軸・柱 エッセイ・小論など


No.003  2005.07.12

殺せばいいのか?死刑制度とは
死刑制度の真意を考える


昨日もまた、埼玉県で起こったある殺人事件に対して、高裁の死刑判決が出た。

日本では、「やむを得ない」というあまり積極的でない意見も含めると、死刑制度の支持率は8割以上にも及ぶという最新のデータがある。
ほんの少し前までは「7割以上」の支持率だったのでここ数年で10%近くアップしている。

そして、死刑確定判決の数も増えて一昨年は 2件だったのに対し昨年は15件。今年は半年で6件にものぼる。
(参考 http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html )
この間の上昇は何を意味しているのだろうか?

昨年からの急上昇に関係している大きな事件は、オーム真理教による「東京・地下鉄サリン事件」だ。
教祖である麻原被告の地裁による判決が昨年出され予想通り死刑判決が出ている。
また、幹部の実行犯に対しても何件か死刑判決が出されていることは周知の通りだ。

8年でようやく首謀者とされる人間に出された一審判決を、一般的には遅すぎると思われがちだが、あれだけ大きな事件では、むしろ早すぎる位だと言う専門家の意見もある。

裁判を早めるために検察側がとったのは確実に死刑判決が出そうな案件だけに絞って刑事告訴をし、細々とした被害には目をつぶるという作戦だった。
裁判所も「早く」という点で一致しており「正確に、正しく」ということよりも優先されたきらいがある。
まず「死刑判決」ありき、で事が進んでいった。
私が驚いたのは、本来サリンの被害者一人一人から取らなければいけない正確な調書をほとんど取っていないらしい。

昨年、9月11日「松本サリン事件」の被害者なのに真っ先に「犯人」に仕立て上げられ、社会的にも抹殺されそうな状況を脱した経験をお持ちの河野義行氏と、麻原被告の弁護士を一時期務めた安田氏の講演を聞く機会があった。
(悲しいことに、まだ奥様は重篤で入院されている)
話を伺い、改めて驚くことが多かったのだが、河野氏という当事者が誇張なしに語る「事実」と、マスコミの報道を通してしか知ることの出来なかった一般的な「事実」とのギャップは凄まじかった。
(大変な問題を含んでいるので一読されたい。詳しくはこちらへ
http://www.jca.apc.org/stop-shikei/news/80/kohno.html )

押収された漬物樽は「薬品の調合容器発見」という事になり、焼き物用の酸化金属や写真用品は毒物として報道された。
瞳孔が異常に縮む「縮瞳」という現象。
これはサリンや有機リン系農薬による中毒によって起こる症状というが、犯行の証拠として、一般的に市販されている「バルサン」まで押収されて犯人に仕立て上げられてゆく。

「有機リン系農薬」というといかにも特殊な物質のように思われるかもしれないが、とても一般的な薬剤で、スプレー殺虫剤や庭木に撒く防虫・消毒剤として「マラソン」や「スミチオン」の名でも売られている。
子供でも手に入るものだ。(私は小学生の時に、盆栽の消毒用にマラソンを買ったことがある)

誤捜査&冤罪の駄目押しは、鑑定を依頼された信州大の先生がはっきりと、押収品からは、犯行に使われたサリンは絶対に作れないという鑑定結果を出しているにもかかわらず、警察がまだ河野氏を被疑者として扱い、病院から退院せざるを得ないように仕向けられ、体調不良を無視して長時間の取調べを進めていったことだった。

河野氏はかなり早い段階から、「死刑」と「社会的な死刑」という方向に、自分が方向付けられていることに気付いて、覚悟をきめて戦ったそうだ。
氏が被害者として公に認めらたのは、事件の1年後だったという。

例えば、私がそういった毒ガス事件の犯人として疑われたらどうだろう?

もしかすると、河野氏以上に疑われる可能性がある。
なぜなら、我が家には普通の家にはない様々な薬品や原料があり、毒物に関する本もあり、広範囲な分野の機械があるからだ。

例えば、「和歌山・カレー砒素事件」で使われた砒素は家では、コバルトバイオレット・ライトという絵の具として存在するし、カドミウム系、クローム系、鉛系、水銀系、絵の具の顔料は毒物の宝庫だ。
逆に、これらの毒物の知識が無いときちんと取り扱えないので、非常に危険といえる。
秤も、精密に測れる上皿天秤から体重計まで選り取りみどり。

強酸である塩酸は、緑の織部焼の表面の膜を取るために持っているし、強い防腐剤は持っているし、有機リン系農薬は庭の植物の消毒用に備えてある。
刃物に至っては、多少こじつければどんな刃型の凶器とも合致するくらい持っている。(マサカリは今のところ無いか…)

多分、電気系統も含め、あらゆる方面から犯人に仕立てることが出来るのでは無いかと思う。

いまや、状況証拠と世論だけで死刑判決が出る時代だから、運が悪ければいつの間にか死刑囚になってしまうとも限らない。


死刑制度反対の理由の一つは、この冤罪による死刑を防止するということが挙げられる。


死刑制度については、家族や友人と話したりするたびに感じることがある。
それは、あまりにも「知らない」ということ。

以前の私もそうだったが、正確な情報が知られていないということであり、もう少し踏み込んで言えば、正確で大切な情報がマスコミでは知らされていないということだ。
もっとはっきり言うと、不正確で断片的な情報を元に考え、感情的・感覚的に死刑賛成・反対を唱えているのが日本の現状だ。
残念なことに、そこに大いなる思い込みが働いていて、国の制度として「死刑」があることで国民が「守られて」いると錯覚されてしまっている。

死刑制度によっては、国民一人一人の命は守られていないのだ!

死刑制度によって守られているのは「国体」と「国家」の権力であって、「人の命の与奪の権利を握っているのだぞ」、ということを見せしめ、錯覚させるのに一役も二役も買っている。
本来、他人の命の与奪の権利など、どこの誰にも無いのにだ!

死刑関係のきちんとした情報を知りたければアムネスティー・インターナショナルのウェブサイトにアクセスすると良いだろう。
本も出している。

(アムネスティー・インターナショナル死刑廃止 http://homepage2.nifty.com/shihai/ )

これは、反対・賛成どちらの考えでも使える「叩き台」だ
アムネスティーは死刑制度に反対する立場だが、その立脚点として常に統計的な数字も大切にしている。
例えば、州ごとに死刑制度の異なるアメリカの凶悪犯罪数を見た場合、死刑制度の有無には全く関係が無いということがはっきりしており、この事実と犯罪者への直接の聞き取りから、「死刑制度は犯罪抑止力にならない」という事実を浮かび上がらせている。

一般には「犯罪抑止になっている」と考えられている「死刑制度」が、凶悪犯罪の起こるその瞬間には、丸っきり無力であり、かえって我に返ったとき「やばい!」という思いが、死体損傷や遺棄といったかたちで犯罪を深めたりすることがある。

また、死刑制度が有ろうが無かろうが、「やる」奴はやってしまう。それも冷静に、死体遺棄まで周到に考えて。

私たちは死刑制度のあるこの国で、「ポア」と称された、サリンによる無差別殺人が行われた事を忘れてはいけないと思う。

そして、「大阪・池田小事件」の犯人は死刑になりたくて小学生を殺し、望み通り異例の早さで死刑執行が行われた。
これは、死刑制度があるからこそ起こった悲劇とも言える。

死にたい人間が「無理心中」のように子供たちを巻き込んだこの事件は、死刑制度を見越した上での犯罪であり、こういった観点からいっても死刑制度は凶悪犯罪の抑止力にならない
もう一度繰り返すが、死刑制度によっては、国民一人一人の命は守られていないのだ。

私の知る範囲では、「池田小事件は死刑制度があったからこそああいった形で起きたので、死刑制度を見直してはどうか?」という、ある意味、正当とも言えるような意見を耳にしたことが無い。
何故無いかは察しがついているが。
度々マスコミに出てくるのは、「殺した奴は殺されて当然」という意見ばかりだ。

悲しいことだが、おそらく同種の「無理心中」のような犯罪はこれから増えるだろう。
現に、奈良県・平群町で起きた女の子の殺害事件は、その後の犯人の言動が池田小事件と同じように死刑を見越した上で行われているように思える。

「殺された人の遺族の気持ちを考えると、死刑で(殺されて)もしょうがないだろう。」という同情的な意見も多い。
遺族の方のなかには多分、「殺しても殺し足りない」という気持ちを持っている方もあるだろう。
「いのちを返せ!」という悲痛な叫びは、たとえ犯人が死刑で死んでも全く変わらずに心に大きな傷を残す。

「死刑で当然。でも心は、生活は、全くそれでは変わらない…、死んだ人間は帰ってこない…」そういう話をする遺族は多い。

私には「殺しても殺し足りない」という気持ちの裏側の「いのちを返せ!」という絞り出すような願いと、「殺された人の遺族の気持ちを考えると、死刑は当然」という考え方とは、丸っきり遠いところにあるような気がしてならない。

犯人が死刑になっても気が済まないのが遺族であり、犯人が死刑になると気が済むのがそういった意見の持ち主の大多数ではないだろうか?

私には、遺族に寄り添うようでいて、冷たく、無責任な意見に思える。
それでは結局、他人事じゃないか。

遺族や友人にとって断腸の苦しみがあっても、私は、やはり国の名の下、法の名の下に死刑という殺人をしてはいけないと思う。
「国」が第一、「法」が第一などと言うつもりは無い。

「法」は中国の律令制度を考えてみれば分かるが、国土を制し、度量衡や言語を統一し、法を整えた始皇帝が人の「性悪説」を唱える韓非子に強く傾倒していたことから分かるように、「互いを信じる」ということからは全くかけ離れたところから発明されて、改良されてきたものだ。
法は簡単に言うと、「人は放って置くと悪いことをするから、予め枠を作ってしまえ」という点から発したものと言えるだろう。
(私には、法治国家より「法」が無くてもうまくいっている社会の方がはるかに良い社会だと思う。)

もし「恨みを晴らすために死刑がある」ということなら、なぜ個人の恨みを国が、そして国民が晴らさなければいけないのか?
それでいて、一番の当事者の気持ちは絶対に晴れないのだ。
ここにも、「国が当事者に代わって成敗してやった」という国民の鬱憤晴らしの錯覚がはたらいていることが見てとれる。

何故、国民が一丸となって復讐しなければならないのか?
本当にやったのかどうか、個人では確認さえ出来ない社会の中で生きているというのに…。

死刑となった人の遺族の悲しみについてはどうしたらよいのだろう?
日本では、このことに関して積極的に語ることはタブーとなっているようだ。
遺族にとってかけがえの無い肉親が失われたとしてもだ。
「因果応報」・「自業自得」と言われ、切り捨てられてゆく。

池田小事件の犯人と獄中結婚した女性の、死刑後の手記を読んだ時、それまで私が漠然と持っていたその女性へのイメージが丸っきり違っていたことに気付いた。
男女というより、母親のようなやさしい気持ちがそこに滲んでいたからだ。
多分、彼女は彼の心の幼さを受け止め、変えようとしていたのだと思う。

「フォーラム90」( http://www.jca.apc.org/stop-shikei/index.html )という死刑制度に反対する団体の会報に載せられていたのだが、大手マスコミは多分載せる勇気は無いと思う。
なぜなら、マスコミはあのような残虐なことをする人間は、残虐な心のまま死刑にされることを望んでいたからだ。

どこかしらで筋書きをつくり、事実を曲げてでも当て嵌めていく。本来のジャーナリズムとは異なるやり方を大手マスコミはすることが多い。
その筋書きには当て嵌まらない、「人間」が見え隠れする手記である。
私は、正直なところ、感動してしまった。

「残忍な人間を国民の税金で生かすことは無い、早く殺してその金を違うところへ使った方が良い」、という意見もある。

日本では、死刑関係は特に秘密主義が保たれ(なぜならその方が「恐怖」の効果が高まるから)一体いくら掛かっているのか分からない。
例えばアメリカの有る州では2億円(正確でないかもしれないが巨額だった)の費用が一人の処刑に費やされるという資料を読んだことがある。
それなら単純に、生かしておくほうがお金は掛からないと思う。
日本での絞首刑の処刑費用は、全て込みで本当にいくら掛かるのだろう?


死刑制度の賛否の様々な理由の中で、私が最も肝心のことだと思い、なおかつ両者から無視されることさえある、非常に難しい問題がある。

それは、「人にとって死とは一体何なのか?殺すということはどういうことか」という問題である。

この問題は、上記の知識よりはるかに大切なことで、死刑制度はこれを抜きには語れないと思える問題なのだが、この問題ではあえて無視されたり、言及されないことが多いようだ。

実は、人のいのちの生死を扱う制度が、この問題を抜きに保たれてきた所に、この制度の正当性に対しての、大きな矛盾があるように思う。

考えてみると、「いのち」をモノとして扱ったり、捉えた場合には、死刑制度を矛盾なく語ることが出来る。
「無上に大切な他人のいのちをぞんざいに扱い壊したのだから、その代価としてお前の最も大切ないのちを壊してやる」
このようにモノとして「いのち」がやり取りされるなら、死刑は非常に分かりやすく、もっと語り易いものとなるかも知れない。

しかし、実際にはそうではない。いのちはモノとしての形も持ちながらモノではない。

「心・精神・魂・霊」の観点を欠いたところで人のいのちを語ることは出来ないのだが、これは今の一般的な唯物論的科学では捉え・語ることが出来ない。

だが、「ある」のだから厄介だ。

死んでも「ある」のが霊の世界(信じる、信じないとか言う次元ではない。それについてはご勝手に、と言うしかない)。

精神という見えないものも「ある」。

つまり、今の日本の社会制度からはみ出たところに人の「いのち」はある

日常的には「ある」ものとして共通認識があるのに、社会制度的には「ない」ものとして扱われてしまう「いのち」。
では、「いのち」と「制度」どちらが古くからあるかといえば、答えることも馬鹿馬鹿しいくらいだ。
それなのに、社会制度(不完全にしか生命や自然を捉えられない制度)で「いのち」を量り、奪うという矛盾。
これが変だと思わないとしたら、頭がおかしくなっているのでご注意を。

動物のいのちはもっと軽く、最近家のすぐ脇で、車に猫を轢かれたのだが、法的にはフェンスを壊されたりしたのと同等の「物損」扱いでしかない。
動物はこの社会では単なるモノなのだ。

例えば「人権」という言葉がある。
面白いことに、この言葉は「国権」に対する概念として作られた言葉だという。
つまり、言葉としては国権のほうが古いくせに、何事にもまして尊重されなければならないとされる人権の方が、当然のことながら、内容的には古くて貴い。
国の前に人が生まれたのだから。
人権の方が後から「発見された」といえば良いだろうか。
そのうち、「人を殺さなくて良い権利」というのも「発見」され、明記される時代が来るのかもしれない。

同様にとても新しい言葉である「基本的人権」は本来、国や社会が認め、保障するという性質のものではないはずだ。
ところが、実際にはあたかも国が認めるという形を取ることで、そこで初めて生まれでもしたような錯覚を起こさせる。

国が基本的人権の与奪権を握っているかのごとく振舞うからくり
は、このような言葉の錯覚から生じるのではないだろうか?
逆に言えば、言葉でもって人間を縛ってきた長い歴史があった、と言えるだろう。

不思議だと思う。人の作った「ことば」が人を支配してゆくのだから。

人は「死んでも死なない」。
しかし、生きていなければ出来ないことがあるので死にたくはないし、人を殺したくもない。

そして、奪われたいのちは、人間の力では決して戻すことが出来ない。

私が死刑に反対する最大の理由はここにある。

よく考えると、「理由があれば(相当数の人間を残虐に殺したりした、とか)、人を殺しても良い(死刑のこと)」と謳って、殺人を肯定しているのが死刑制度である。

この考えの半歩先にあるのは、戦争による殺人の肯定だ。
一歩も踏み出す必要がない。

そろそろ、危うい処に立っていることに気付かないと。

殺せばいいのか?死刑制度とは  −終−


みもろ トップへ


HOMEへ エッセイ トップへ